明治40年
<1907年>
(0歳) |
4月29日、父謙助、母フクの長男として、山口県吉敷郡山口町大字下宇野令村に生まれる。
11月以降、母とともに父の任地である中国の旅順・柳樹屯で暮らす。 |
明治42年
<1909年>
(2歳) |
3月、父の転勤で広島に転居。 |
明治45年
<1912年>
(5歳) |
9月、父の転勤で金沢に転居。 |
大正3年
<1914年>
(7歳) |
3月、山口に帰る。
4月、下宇野令尋常高等小学校に入学。 |
大正4年
<1915年>
(8歳) |
1月、弟亜郎病没。亡弟亜郎を歌ったのが詩作の始まり。 |
大正7年
<1918年>
(11歳) |
5月、山口師範学校附属小学校に転校。 |
大正9年
<1920年>
(13歳) |
2月、「防長新聞」に投稿した短歌が入選。以後投稿を続ける。
4月、県立山口中学校に入学。文学に耽り、次第に学業を怠るようになる。 |
大正11年
<1922年>
(15歳) |
4月(推定)、山口中学校の上級生宇佐川紅萩、「防長新聞」の若手記者吉田緒佐夢と共著で私家版の歌集『末黒野』を刊行。 |
大正12年
<1923年>
(16歳) |
3月、落第。
4月、京都の立命館中学第3学年に編入学。
秋、高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』を読み、ダダイズムの詩を書き始める。
12月、表現座に所属していた3歳年上の長谷川泰子を知る。 |
大正13年
<1924年>
(17歳) |
4月、長谷川泰子と同棲。
7月、富永太郎を知り、以後交友。フランス象徴詩を学ぶ。 |
大正14年
<1925年>
(18歳) |
3月、泰子と共に上京。
4月、小林秀雄と知り合う。
11月、富永太郎病没。泰子、小林の許に去る。 |
大正15・
昭和元年
<1926年>
(19歳) |
4月、日本大学予科に入学。
5月~8月、「朝の歌」を書く。
9月、家族に無断で日本大学を退学。
11月、この頃、語学学校アテネ・フランセに通う。 |
昭和3年
<1928年>
(21歳) |
5月、音楽団体スルヤ発表演奏会で「朝の歌」「臨終」が歌われ、歌詞として機関誌「スルヤ」に掲載される。
父謙助病没。
小林、泰子の許を去る。 |
昭和4年
<1929年>
(22歳) |
4月、同人誌「白痴群」創刊。 |
昭和5年
<1930年>
(23歳) |
4月、「白痴群」が6号で廃刊となり、主要発表誌を失う。
12月、泰子が山川幸世の子どもを産み、その名付け親となる。 |
昭和6年
<1931年>
(24歳) |
4月、東京外国語学校専修科仏語に入学。
9月、弟恰三病没。のちに追悼詩および小説「亡弟」を書く。 |
昭和7年
<1932年>
(25歳) |
4月、詩集『山羊の歌』の編集に着手。
6月、『山羊の歌』の予約募集をするが、10名程度の申し込みしかなかった。
9月、母からもらった300円で『山羊の歌』の印刷にかかるが、資金不足で刊行に至らず。 |
昭和8年
<1933年>
(26歳) |
3月、東京外国語学校専修科修了。
5月、「紀元」の同人となる。
12月、遠縁の上野孝子と結婚。訳詩集『ランボオ詩集《学校時代の詩》』を三笠書房より刊行。 |
昭和9年
<1934年>
(27歳) |
10月、長男文也が誕生。
12月、『山羊の歌』を文圃堂書店より刊行。 |
昭和10年
<1935年>
(28歳) |
1月、小林秀雄が「文学界」の編集責任者となり、中也は自由な発表の場を得る。
5月、「歴程」の同人となる。
12月、「四季」の同人となることを承諾。 |
昭和11年
<1936年>
(29歳) |
6月、訳詩集『ランボオ詩抄』を山本書店より刊行。
9月、NHKの入社面接を受けるが、就職せず。
11月、文也病没。
12月、次男愛雅が誕生。
12月、神経衰弱が昴じる。 |
昭和12年
<1937年>
(30歳) |
1月、千葉市の中村古峡療養所に入院。
2月、退院。鎌倉に転居。夏、帰郷を決意する。
9月、訳詩集『ランボオ詩集』を野田書房より刊行。詩集『在りし日の歌』を編集、清書して、小林秀雄に託す。
10月、結核性脳膜炎を発病、入院。
10月22日、永眠。 |
昭和13年
<1938年> |
1月、愛雅病没。
4月、『在りし日の歌』が創元社より刊行される。 |